【第128回】「明星」
「銀河」「彗星」「月光」らと並ぶ東京〜大阪間の名門急行として昭和40年代前半まで君臨していたのがこの「明星」だ。誕生は昭和20年代前半と東海道夜行の中では比較的早い方だったが、43.10改正では「銀河」へ吸収された。その後、特急として活路を山陽、九州路へ見い出し、50.3改正では関西発着の鹿児島本線系夜行特急の代表として7往復もの陣容を誇ったが、以後はろうそくが燃え尽きるように先細り、61.11改正で最後まで残った1往復も姿を消している。
昭和20年代は座席急行に徹する 31.3から寝台車の連結開始
戦後の混乱から立ち直りつつあった昭和23(1948)年7月1日改正では、国鉄のメインルートである東海道本線でも徐々に優等列車の増発が行なわれるようになり、東京〜大阪間では既存の急行11・12列車(改正前は103・104列車)のほかに不定期急行2017・2018列車が新設された。翌24(1949)年9月15日改正では、急行11・12列車が15・16列車に変更となり「銀河」と命名、わずか9日間ではあったが、1・2等車だけの編成で運転された同列車は国鉄の復興を象徴しているかのようであった。不定期2017・2018列車の方は、この改正で定期化され急行13・14列車に昇格、新たに急行17・18列車も登場し、こちらは非公式ながら「流星」と名付けられた。 さらに昭和25(1950)年10月1日改正では、急行15・16列車「銀河」が13・14列車に、急行13・14列車は11・12列車に、急行17・18列車は急行15・16列車に変わり、同年11月2日には11・12列車が「明星」、15・16列車が「彗星」と命名された。これによって東京〜大阪間急行の愛称名は3本となったが、「銀河」「彗星」には豪華な1・2等寝台車が連結されていたのに対して、「明星」の方は輸送力列車という位置づけから、不定期時代の末期に1等寝台車が連結されていたことを除き、座席車のみの運転が続いていた。愛称命名時の「明星」のダイヤは、11列車/東京19時30分→大阪6時26分、12列車/大阪20時00分→東京7時08分で、下り東京発では東京〜大阪間夜行急行の先頭を務めていた。 昭和28(1953)年11月11日には東京〜大阪間に第4の急行として「月光」が誕生するが、寝台車連結という点では「明星」はこの新顔にも先を越され、昭和20年代は編成的に不遇な地位に置かれていたようだ。 そんな「明星」に愛称命名後初めて寝台車が連結されたのは、3等寝台車が復活した昭和31(1956)年3月20日のことで、ナハネ10が「銀河」「彗星」「月光」とともに2両連結されるようになる。さらに東海道本線全線電化が達成された昭和31(1956)年11月19日改正では「彗星」が不定期列車に後退した関係で「明星」にも2等寝台車B・C室が連結されるようになった。しかし、これも翌32(1957)年10月1日改正で「彗星」が定期の寝台急行に昇格するとC室のみとなってしまった。 昭和33(1958)年11月に初の準急型電車として91系(のちの153系)電車がデビューすると、東京〜大阪間の優等列車は昼夜問わず、電車が活躍するようになる。昭和36(1961)年3月1日改正では昼行急行「なにわ」の153系化とともに、その夜行版として急行「金星」が登場、昭和36(1961)年10月1日改正では、「いこま」「せっつ」「六甲」「なにわ」「よど」といった夜行電車急行が増発され、座席急行は電車、寝台急行は客車、という棲み分けが確立するようになる。 「明星」もその流れに乗って、36.3改正では緩急座席車と郵便、荷物車を除きすべて寝台車という、始まって以来の豪華な編成に変貌した。もちろん「銀河」「彗星」「月光」も健在で、「あかつき」「すばる」「金星」といった新顔の列車が出揃った昭和38(1963)年10月1日改正では、これら7本の下り列車が、東京を20時40分〜22時10分の間にほぼ10〜30分間隔で発車するという壮観さを見せた。 しかし、この栄華も東海道新幹線が開業する昭和39(1964)年10月1日改正までで、この改正では「彗星」「すばる」「あかつき」が廃止、さらに昭和40(1965)年10月1日改正では「金星」「月光」も削減され、東京〜大阪間の東海道夜行は「銀河」と「明星」のみという淋しい状態となった。この2本も列車名の整理が行なわれた昭和43(1968)年10月1日改正では「銀河」に統一され、「明星」の名は東海道から消えた。
43.10で関西〜九州間夜行特急に50.3では7往復の最多勢力となる
東京〜大阪間の急行としてはその名が消えた「明星」だったが、今度は関西発着の九州特急でその使命が待っていた。特急「明星」の誕生だ。編成は43.10改正を機にデビューした583系で、昼夜兼行の寝台電車という特性を活かして昼行の「つばめ」「はと」などと共通運用となった。その当時のダイヤは、11M/新大阪20時28分→熊本7時25分、12M/熊本21時40分→新大阪8時50分で、大阪の万国博覧会輸送を控えた昭和45(1970)年2月28日(上りはその翌日)からは、新大阪〜熊本間に1往復が増発され2往復となった(増発分の設定は44.10改正時)。しかし、当時の南福岡電車区では583系の予備車が不足していたため、同系が増備される同年10月1日改正までは上りが水曜、下りが木曜運休という変則運転となった。 山陽新幹線が岡山まで達した昭和47(1972)年3月15日改正では、昼行優等列車のほとんどと夜行優等列車の一部が岡山で新幹線に接続する体系となった。しかし、「明星」は、新大阪(上りは京都)〜熊本間、京都(上りは新大阪)〜博多間に各1往復を加えて、合計4往復となった。このうち博多発着の1往復は、「月光」を吸収した列車だった。 昭和49(1974)年4月25日改正では、2段式B寝台車の24系25型が関西発着の寝台特急にデビューし、新大阪〜熊本間に同型を使用した「あかつき」が1往復増発された。その関係で「明星」1往復がスジを譲る形で臨時列車に格下げとなっている。 山陽新幹線が博多まで達した昭和50(1975)年3月10日改正では、新幹線と並行する「つばめ」「はと」「しおじ」「みどり」といった昼行特急群がすべて廃止され、一般型客車を使用していた夜行急行も根こそぎ廃止されてしまった。その大激変の中にあって、「明星」の名は関西と熊本、西鹿児島(現・鹿児島中央)を結ぶ寝台列車の総列車名として残されることになり、次のようなラインアップを飾るようになった。 ・「1・1号」(583系)=23M/新大阪17時55分→西鹿児島8時36分、38M/博多20時05分→新大阪5時46分 ・「2・2号」(24系25型)=25列車/新大阪18時42分→西鹿児島9時43分、26列車/西鹿児島15時04分→新大阪6時23分 ・「3・6号」(583系)=27M/京都18時20分→西鹿児島9時57分、28M/西鹿児島19時19分→京都10時22分 ・「4・5号」(14系座席車)=6029列車/新大阪19時26分→西鹿児島10時30分、6030列車/西鹿児島17時41分→新大阪9時20分 ・「5・4号」(24系25型)=33列車/新大阪20時27分→熊本8時06分、34列車/熊本19時15分→新大阪7時08分(新大阪〜鳥栖間「あかつき2・3号」と併結) ・「6・3号」(14系寝台車)=4043列車/新大阪21時27分→熊本9時55分、4044列車/熊本18時20分→大阪6時32分(新大阪、大阪〜門司間「あかつき3・2号」と併結、門司〜鳥栖間は筑豊本線経由) ・「7・7号」(583系)=37M/新大阪22時28分→博多8時05分、36M/西鹿児島19時50分→新大阪10時46分 「あかつき」「きりしま」「月光」の勢力をすべて取り込んでしまったため、7往復で4種の編成に膨れ上がったが、特急としての「明星」はこの改正が絶頂期で、以後は、山陽新幹線への乗客移転と寝台中心の列車体系による実質値上げのイメージが響き、利用率は低調に推移し、昭和53(1978)年10月2日改正では4往復、昭和55(1980)年10月1日改正では3往復、昭和57(1982)年11月15日改正では24系25型のみの1往復と、坂道を転がり落ちるように勢力が衰退した。昭和59(1984)年2月1日改正からは14系15型に置換えの上、「あかつき」との併結を再開したが、国鉄最後のダイヤ改正となる昭和61(1986)年11月1日改正でついに命運が尽きてしまった。なお、「明星」の名は、JR移行後も臨時列車に使用されたことがある。
※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。
公開日 2023/09/01
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