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「白山」

【第85回】 「白山」


白山は標高2702mの御前峰を主峰とし、富山、石川、福井、岐阜の4県に接する火山群だ。29.10改正では上野~金沢間を信越本線経由で結ぶ急行が誕生し、その雄大な「白山」の名が付けられたが、昭和30~40年代に僚友が次々と気動車、電車化されていく中で客車列車として最後まで存続した。

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信越本線戦後初の昼行急行となるも最後まで近代化から取り残される

元を辿れば上野~直江津間の不定期準急に端を発する「白山」は、29.10改正で急行に格上げされた以降は客車時代が永く続いた。47.3改正では晴れて電車特急に昇格し、横軽協調対応の489系が充当されたが、97.10改正では長野新幹線の開業によりその使命を終えている。

戦前、信越本線を経由して首都圏と北陸地方を結ぶ優等列車は、昭和19(1944)年4月1日改正で廃止された上野~大阪間急行601・602列車が存在していたが、この列車は信越本線内が夜行で運転されており、ルーツとしては戦後に誕生した「北陸」に近い列車だった。信越本線内が昼行となる優等列車は、昭和23(1948)年7月1日に運転を開始した上野~直江津間不定期準急2309・2310列車が最初で、同列車は昭和25(1950)年10月1日改正で全区間が定期化、昭和26(1951)年4月1日に「高原」と命名された。この「高原」を昭和29(1954)年10月1日改正で金沢まで延長し急行に格上げした列車が「白山」だった。その当時のダイヤは、603列車/上野9時10分→金沢19時07分、604列車/金沢9時45分→上野20時00分で、1日の大半を費やして上野と金沢を結ぶ堂々たる長距離急行だった。 昭和30年代に入っても、信越本線内におけるその風格は変わらず、昭和33(1958)年頃の国鉄監修時刻表を見ると、新潟や長野行きの準急に混じって唯一急行としてその存在を誇示していた。昭和36(1961)年5月1日には信越本線にもキハ58型気動車グループによる臨時急行「志賀」が誕生、さらに10月1日改正では、同グループによる「とがくし」「丸池」といった急行が増発され、上野~大阪間には80系気動車による特急「白鳥」も誕生するなど、客車のままで残された「白山」はスピードやサービス面で遅れを取ったが、それでも戦後いち早く誕生した信越本線の昼行急行という知名度を生かして根強い人気を維持していた。 さて、信越本線を走る「白山」は、碓氷峠の難所が控える横川~軽井沢間(現・廃止)のアプト式区間でご多分に漏れずED42の助けを借りていた。しかし、昭和38(1963)年7月15日に横軽間の新線が開通し、高崎~長野間の電化が達成されたのを契機に、9月30日には全面的に粘着運転に切り換えられ、EF63による補機連結が開始される。また、同年10月1日改正では急行の電車時代が到来し、上野発着の信越本線の昼行急行は非電化区間へ直通する「白山」と「妙高」を除き165系電車に置き換えられている。  信越本線内における電車急行の増発は昭和40年代に入っても続き、昭和41(1966)年10月1日改正では「妙高」も電車化、合わせて上野~長野間に電車特急「あさま」が誕生している。さらに、昭和43(1968)年10月1日改正ではEF63との協調運転機能を備えた169系電車が投入され、電車急行の編成増強が図られた。 このような流れの中で、「白山」は昭和40(1965)年10月1日改正で福井延長(43.10改正で廃止)を行なうなど若干の変化が見られたものの、北陸本線内の電化が完了していなかったこともあり、客車列車で残された。 昭和44(1969)年10月1日改正では、北陸本線の全線電化が達成されたことから、「白山」は全区間が電気機関車による牽引に改められたが、北陸本線が交流電化されていた関係でまたもや電車化は見送られ、信越本線の昼行優等列車で唯一近代化から取り残された恰好となっていた。

47.3で電車特急にグレードアップ 信越本線で久々の食堂車を連結

末期の特急「白山」を飾ったのはオイスターホワイトをベースに薔薇色とライトコバルトブルーの帯が配された、いわゆる「白山」色489系だった。

そんな「白山」がようやくほかの列車と足並を揃えるようになったのは、昭和47(1972)年3月15日改正でのことだった。EF63との協調運転に対応した特急型交直両用電車489系がようやくデビューし「白山」に投入され、同時に特急格上げが実現した。その当時のダイヤは、3006M/金沢7時00分→上野13時34分、3005M/上野14時25分→金沢20時53分で、上野~金沢間の所要時間は急行時代より2時間以上も短縮された。この当時、「白山」と並ぶ特急「あさま」はEF63と非協調の181系で運転されていた関係で編成が8両に制限されており食堂車が連結されていなかったが、「白山」の方は12両の長大編成が可能となり、食堂車を連結するようになったことから、信越本線では44.10改正で「はくたか」が上越線経由に変更されて以来の食堂車連結特急となった。 その後、特急「白山」は同年11月24日に1往復(下りは翌日から運転開始)、昭和48(1973)年10月1日改正でさらに1往復増発され、最多の3往復となった。昭和50年代に入ってもその陣容に大きな変化はなかったが、昭和53(1978)年10月2日改正では、489系の編成を6M6Tから8M4Tに組み替えた関係で食堂車の連結が中止されている。上越新幹線が開業した昭和57(1982)年11月15日改正でも、僚友の上越線経由「はくたか」が廃止されたものの、「白山」の勢力は保持され、食堂車の連結が復活している。 ちなみに、昭和53(1978)年には信越本線妙高高原~関山間で大規模な地滑りが発生し同区間が長期不通となり、5月21日~9月5日の間は3往復中1往復が上越線経由で運転されたことがある。残り2往復は1往復が長野発着として運転、1往復が運休となった。

長野新幹線開業により信越本線分断 その影響で43年の歴史に終止符

ボンネットタイプの489系は特急「白山」の登場から消滅まで一貫して活躍し続けた。

上越新幹線が上野まで乗り入れるようになった昭和60(1985)年3月14日改正では、長岡での上越新幹線乗継ぎルート強化により、「白山」は1往復削減され2往復となり、同時に食堂車が廃止された。JR移行後はそれに代わる新しいサービスとして、平成元(1989)年1月10日からフリースペースと簡単な供食設備を備えた「ラウンジ&コンビニエンスカー」の連結が開始されたが、首都圏対北陸の旅客は本数に勝る上越新幹線へさらに流れ、平成4(1992)年3月14日改正で「白山」は特急格上げ当初の1往復に戻ってしまった。 その「白山」に引導を渡したのは、平成9(1997)年10月1日に開業した長野新幹線(当初は「長野行新幹線」と呼称)だった。同新幹線の開業により、並行在来線となる信越本線は高崎~横川間および篠ノ井~直江津間のみが存続し、横川~軽井沢間は廃止、軽井沢~篠ノ井間は第3セクターのしなの鉄道へ転換されることになった。このため、運転区間が分断される「白山」は廃止を余儀なくされ、急行として運転を開始して以来、43年の歴史に終止符を打った。

公開日 2020/01/01


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