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「うわじま」

【第93回】「うわじま」


四国の西端に位置する宇和島市は、真珠や闘牛で有名な、愛媛県でも有数の観光地として知られている都市だ。そこを始終着としていた予讃線系統の急行が「うわじま」だった。当初は準急「いよ」から上り1本のみが派生して誕生、昭和43(1968)年10月1日改正では列車名統合により一気に予讃線系統の主力として、のし上がった。

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戦後まもなくから始まった四国島内の優等列車の歴史

全盛期の「うわじま」の編成。かつての四国の急行には前面に列車名を記した丸いヘッドマークが付けられていた。

日本列島の「三島」と呼ばれる北海道、四国、九州のなかで、四国はもっとも面積が狭く、鉄道の総距離も短かった。このため戦前は別料金を必要とする優等列車の設定はなく、また、夜行列車も存在しなかった。戦後になると、昭和20(1945)年11月20日に実施されたダイヤ改正で高松棧橋(現・廃止)〜松山、高知間に夜行列車が設定された。この列車は翌年11月10日改正では予讃本線(現・予讃線)区間が八幡浜、土讃本線(現・土讃線)区間が土佐久礼まで延長、昭和22(1947)年1月4日には石炭事情の悪化により廃止されている。しかし、石炭事情が好転した同年6月29日には復活し、高松棧橋〜松山、高知間の準急29・26列車として運転された。この準急は運賃のほかに準急行料金が必要となったことから、四国では初の優等列車となった。 この列車は昭和23(1948)年7月1日改正では宇和島、影野まで延長されたが、昭和25(1950)年10月1日改正では普通列車に格下げとなり、代わって、高松棧橋〜松山、須崎間に昼行準急が設定された。この列車は松山行きが「せと」、須崎行きが「南風」と命名され、宇高航路を介して東京〜宇野間急行39〜501・502〜40列車と連絡した。 ちなみに優等列車ではないが、この改正では宇高航路で客車航送を行ない、本州と四国を乗換えなしで直通できるユニークな列車が登場している。大阪〜宇野間は準急307〜507列車・508〜308列車として運転し、宇高航路深夜便を介して、四国内では高松〜宇和島間の普通13・30列車(高松〜多度津間は高松〜須崎間普通113・130列車を併結)として運転された。この客車航送は当時、海を渡る列車として話題になったが、昭和30(1955)年5月11日に宇高航路で紫雲丸と第3宇高丸が衝突する「紫雲丸事故」が発生したのを契機に廃止されている。

四国優等列車気動車化の原動力となった準急「いよ」

四国ならではの急行色郵便気動車を連結した急行「いよ」。写真はパノラミックウィンドウとなった後期型。

昭和31(1956)年11月19日改正では、予讃本線に「せと」に続く第二の準急として、高松棧橋〜宇和島間に不定期準急「いよ」が設定された。当時のダイヤは1005列車/高松棧橋5時55分→宇和島12時40分、1006列車/宇和島14時30分→高松棧橋21時30分で、本州側では京都〜宇野間の夜行普通列車247・248列車と連絡した。この「いよ」は昭和32(1957)年3月20日改正で定期列車に格上げされている。 昭和33(1958)年に入ると、準急「日光」や「ひかり」で名を馳せたキハ55型気動車グループが続々と量産され、四国にも渡ってきた。この年の11月1日改正では、キハ26型やキロハ18型を使用した四国初の気動車準急「やしま」が高松棧橋〜松山間で運転を開始したが、この列車こそ四国の鉄道近代化の尖兵であり、以後、四国内の準急は客車列車の気動車化とそれに伴う増発が図られた。「いよ」の方は昭和35(1960)年2月15日改正で気動車による1往復を増発、運転区間が重複する「やしま」も統合し、客車1往復・気動車2往復の計3往復となった。さらに同年10月1日改正では、本州側の宇野線が電化されたことにより準急「鷲羽」が増発されたことから、接続する「いよ」はさらに1往復を増発、客車1往復は気動車化され、全列車気動車による運転となった。こうして「いよ」は次第に予讃本線系統優等列車の顔として定着していった。

「いよ」から派生した「うわじま」 ヨン・サン・トオ改正では大躍進

高松を発車する急行「うわじま」。かつてはここを起点に宇高航路からの接続を受けて各方面の急行が出入りしていた。

このように四国の優等列車は昭和30年代半ばには着々と近代化が進行し、昭和36(1961)年4月15日改正では、高松〜宇和島間に四国初の急行「四国」が誕生した。この「四国」は「いよ」1往復を格上げした列車で、準急時代に比べて40分程度のスピードアップを果たした。しかし、この時点ではまだ暖地向けのキハ58型気動車グループが落成していなかったため、キハ55型気動車グループによる編成となり、所要時間と停車駅の少なさで準急と差を付けていた。また、この改正では、これまで客車で運転されていた準急「せと」も気動車に置き換えられ、予讃本線系統の優等列車はすべて気動車化された。「いよ」のほうは、急行格上げにより1往復減ったものの、高松〜松山間に2往復、松山〜宇和島間に1往復が増発され、依然として勢力を拡大し続けた。 4月15日に続いて行なわれた大規模な10月1日改正では、ついに四国にもキハ58型気動車グループが登場したが、当初、高松機関区に配置されたのはキロ28のみで、急行「四国」に優先的に連結された。この改正では、宇野線に電車特急「富士」「うずしお」が登場、四国内優等列車の対本州連絡が整備され、予讃本線では高松〜松山間に急行「四国」の間合いで準急「道後」が誕生している。「いよ」は高松〜松山間で1往復が増発されたが、宇和島→松山間の「いよ」は、誤乗防止の意味を込めて「うわじま」に改称された。これにより「いよ」は5往復となるが、下り列車の行き先が松山と宇和島の2通りとなり、旅客案内上不都合になったことから、昭和38(1963)年2月1日改正では、宇和島発着の「いよ」は「うわじま」に改称され、宇和島〜松山間の従来の「うわじま」は高松まで延長された。「いよ」の分家的存在で出発した「うわじま」だったが、この時期からいよいよその勢力が拡大され始めた。 同年10月1日改正では、高松〜松山間に全車指定席の準急「えひめ」が登場したが、この頃になると予讃本線系統の列車名は乱立気味となってきた。昭和40(1965)年10月1日改正以後の時刻表を見ると、急行では高松〜宇和島間の「せと」、高松〜松山間の「道後」が運転されており、これに準急「うわじま」「いよ」が加わっているが、昭和41(1966)年3月5日には100km以上を走る準急がすべて急行に格上げされたことから「うわじま」「いよ」も急行となり、乱立状態にさらに拍車がかかった。このようなことから昭和43(1968)年10月1日改正では大幅な列車名の整理が実施され、高松〜松山間は「いよ」、高松〜宇和島間は「うわじま」の2本建てとなった。これにより、「うわじま」は9往復もの大所帯になり、予讃本線系統の代表列車に成長した。
昭和47(1972)年3月15日、山陽新幹線が岡山まで開業したため、四国内でも宇野線快速と宇高航路を介して高松で接続する特急列車の運転が開始された。この特急は、予讃本線系統は「しおかぜ」、土讃本線系統は「南風」と命名され、181系気動車により運転されたが、「しおかぜ」はわずか3往復のみだったため、まだまだ「うわじま」「いよ」の大勢力を脅かす存在ではなく、昭和50年代に入っても予讃本線の優等列車の主力は相変わらず「うわじま」だった。 そんな「うわじま」がターニングポイントを迎えたのが昭和61(1986)年11月1日改正だった。この改正では新鋭の185系気動車が投入され、特急「しおかぜ」増発の原動力となった。当然、急行の特急格上げが実施され、「うわじま」は4往復、「いよ」に至ってはわずか1往復にまで落ち込んだ。四国内における特急化の波はJR移行後もさらに高まり、平成元(1989)年に振り子式の2000系気動車が登場すると、同年7月22日改正でさらなる特急増発が行なわれ、「しおかぜ」の増発と引換えによりまず「いよ」が姿を消した。「うわじま」の方は、この時期、松山〜宇和島間の末端区間のローカル急行と化しており、消滅は時間の問題となっていた。平成2(1990)年には2000系気動車が増備されたことにより、同系が松山〜宇和島間ローカルにも進出。11月21日改正では、わずかに残っていた「うわじま」をあっさりと特急「宇和海」に置き換えた。この改正では予讃線はおろか、土讃線、高徳線、牟岐線からも急行が消滅し、残るは徳島線の急行「よしの川」のみとなったが、平成11(1999)年3月13日改正で特急「剣山」に格上げされ、現在、四国内では1本も急行が運転されていない。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2020/10/01


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