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「みちのく」

【第94回】「みちのく」


東北のエースというと特急「はつかり」がすぐに頭に浮かぶが、昭和33(1958)年10月10日に同列車が登場する以前は、この「みちのく」がまさに東北のエースだった。上野〜青森間を昼行で走り、青函航路の深夜便を介して北海道内を朝走るダイヤは、北海道連絡の代表的なパターンとして戦前から定着しており、戦後は「みちのく」がいち早く担っていた。。

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戦後は北海道連絡を考慮して東北本線から常磐線へ鞍替え

特急「はつかり」の登場以前から「みちのく」は上野〜青森間を代表する昼行優等列車として君臨しており、43.10改正で「第2・1みちのく」から「十和田1・1号」に改称されたものの、スジ自体はなおも存続していた。

本州〜北海道間の連絡輸送において、戦前の最速のパターンが確立したのは昭和9(1934)年12月1日改正でのことで、上野〜青森間を常磐線経由で結ぶ急行201・202列車を利用して、上野〜札幌間が24時間35〜40分で結ばれていた。この24時間台の所要時間は、軍需輸送優先でさらなる優等列車の削減が実施された昭和18(1943)年10月1日改正で崩れ、以後、昭和33(1958)年10月10日に特急「はつかり」が運転を開始するまで復活することはなかった。 戦後に入ると、昭和20(1945)年11月20日改正で、戦争末期に全廃されていた急行が東北筋にも復活した。しかし、終戦直後の石炭事情は深刻で、せっかく復活した急行も削減、復活を繰り返し、安定した運転は望めなかった。そんな状況に光明が差してきたのは戦前型のダイヤが見直された昭和23(1948)年7月1日改正でのことで、「みちのく」のルーツであった東北本線経由の上野〜仙台間急行103・104列車が不定期ながら青森まで延長された。この列車は翌年9月15日改正で101・102列車となり、仙台以北も定期化されたが、勾配が多い東北本線では北海道連絡の速達化は望めないため、昭和25(1950)年10月1日改正では、平坦区間が多い常磐線経由に鞍替えされ、急行201・202列車となった。その当時のダイヤは、201列車/上野9時35分→青森23時50分、202列車/青森5時15分→上野20時15分で、青函航路深夜便を介して、北海道側では急行1・2列車(「大雪」の前身)に接続していた。また、この列車は、改正前は東北本線経由であったため、上野〜仙台間を東北本線経由で運転していた急行101・102列車(「青葉」の前身)の一部車両を仙台〜青森間で「みちのく」に継送させ、東北本線沿線からの旅客の利便を図っていた。 この改正後、全国の主要な急行列車にはリクライニングシートを装備した特別2等車が順次連結されることになったが、この車両は指定席扱いとされたことから、座席指定券を発売する都合上、愛称名が必要となり、昭和25(1950)年10月23日には一般からの公募により、急行201・202列車には「みちのく」の名が与えられ、同年11月には特別2等車の連結が開始された。 そんな「みちのく」も津軽海峡で浮遊機雷が発見されたのちの昭和26(1951)年5月18日からは編成やダイヤ面で影響を受けている。常磐線経由に変更となった25.10改正から連結されていた1等寝台車は、車両ごと青函連絡船に積まれ札幌まで直通していたが、安全のため青函航路で夜間航行が中止されると同時に連結が取り止められてしまった。また、同年8月からは上り「みちのく」のダイヤが大幅に繰り下げられ、昭和27(1952)年9月1日改正で急行3205・3206列車が設定されるまでは、仙台で急行「青葉」に接続しない状態が続いた。27.9改正以後の「みちのく」は、201・3206列車という上りのみ列車番号が不定期という変則状態となったが、青函航路の深夜運航が再開された昭和28(1953)年4月5日には、201・202列車に復している。

40.10改正で多層建て列車が登場 47.3改正で特急化され最後の姿に

47.3改正では旧「第2・1みちのく」のスジを受け継いだ「十和田1・1号」が特急「みちのく」に格上げされ、583系に生まれ変わった。

昭和33(1958)10月10日、東北筋にも待望の特急が運転されることになり、客車特急「はつかり」が登場した。この「はつかり」は北海道連絡を主眼にした列車で、ダイヤ的には本州内昼行〜青函夜行〜北海道内昼行のパターンとなり、本州内は「みちのく」と運転時間帯が重複することになった。北海道連絡を考慮しなければ、例え続行運転になったとしても輸送力が増えるので好ましいことではあったが、接続する青函航路の輸送能力を考慮すると、1本の深夜便が東北筋から2本の優等列車を受けてしまうとパンクする怖れが充分にあった。このため、重複する「みちのく」は盛岡以北を不定期化し、青函航路が増便される繁忙期のみ青森まで運転することで、青函航路の旅客調整が図られたが、昭和36(1961)年3月1日改正では再び全区間が定期列車に戻っている。 「はつかり」の方は、昭和35(1960)年12月10日に気動車化され、翌年3月1日改正では大幅なスピードアップを果たしたが、「みちのく」の方も老舗の貫禄からか人気が根強かったため、後年のように特急化=急行廃止という流れにはならず、この両列車は仲良く北海道連絡の旅客を分け合った。「みちのく」の方は急行である分、停車駅も多く、東北北部への旅客輸送もカバーする役割も担っていたようだ。 常磐線や東北本線の電化が進んだ昭和40年代に入っても、「みちのく」は客車列車のまま走り続けていたが、昭和40(1965)年10月1日改正では、気動車による1往復が増発された。これにより、従来の「みちのく」は「第 2・1みちのく」、増発分は「第1・2みちのく」となり、上野〜青森〜大鰐(現・大鰐温泉)間、上野〜小牛田〜鳴子間の運転となった。この当時の「第1・2みちのく」のダイヤは、201D(〜2201D)/上野7時40分→大鰐21時25分(鳴子14時51分)、(2202D〜)202D/(鳴子13時44分)大鰐7時23分→上野21時14分で、上野〜盛、宮古間の「陸中」を併結していたことから、下りの上野発車時点では13両編成の壮大な4階建て列車となっていた。また、盛岡以北では盛岡〜久慈間の準急「うみねこ」を併結するなど、まさに気動車ならではの運用の妙を見せていた。 この「第1・2みちのく」は、翌年10月1日改正を迎えると、上野〜青森、久慈、盛間の急行「三陸」を増発することで、上野〜弘前、宮古、鳴子間の運転に整理された。ダイヤは201D(〜2201D・2601D)/上野7時40分→弘前20時15分(鳴子14時52分・宮古18時55分)、(2602D〜・2202D〜)202D/(宮古9時50分・鳴子13時45分)弘前8時47分→上野21時14分で、基本の上野〜弘前間編成は花輪線経由となり、青森に姿を見せなくなった。 東北本線の全線電化開業を機に昭和43(1968)年10月1日に実施されたダイヤ改正では、東北筋では客車列車、気動車列車ごとに愛称名が整理されることになり、客車の「第2・1みちのく」は「十和田1・1号」に、気動車の「第1・2みちのく」は「みちのく」にそれぞれ改称された。 しかし、皮肉なもので、「みちのく」として残った気動車1往復は昭和45(1970)年10月1日改正では仙台以南が「そうま」に、仙台以北が「よねしろ」「さんりく」「むろね」の多層建て急行にスジを譲り姿を消した。一方、「十和田1・1号」に名を変えていた旧「第2・1みちのく」の筋は、昭和47(1972)年3月15日改正で唯一常磐線を経由する上野〜青森間の昼行電車特急に格上げされ「みちのく」と命名、約1年半ぶりに東北の老舗名が復活した。この当時の「みちのく」は、11M/上野14時48分→青森23時45分、12M/青森4時53分→上野13時46分のダイヤとなり、急行時代同様、「はつかり」と北海道連絡の旅客を分け合っていた。しかし、東北新幹線が本格運転を開始した昭和57(1982)年11月15日改正では、仙台以南が「ひたち」に吸収され、「みちのく」の名は再び消滅、現在に至るまでその名は復活していない。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2020/10/15


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