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「八甲田」

【第97回】「八甲田」


「八甲田」の名は、青森県中央部に位置する標高1585mの「八甲田山」に由来する。青森県にちなんだ愛称名であることから、当初は青森県と岩手県北部を結ぶローカル気動車準急にその名が付けられていたが、36.10改正では上野~青森間の本線急行に昇格、一時は多層建て急行の「三陸」を吸収して昼夜行となったものの、45.10改正では再び夜行のみとなる。北海道方面へのエコノミー客の根強い人気に支えられたせいか、JR移行後も生き残った。

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東北地方北部用ダイヤが組まれた気動車準急時代の「八甲田」

「八甲田」は34.7に東北ローカルの気動車準急としてその名が登場したが、36.10改正では上野~青森間の急行にその名が与えられ、以後の32年間は一時期を除き、客車一筋で生涯を全うした。

キハ55型気動車グループは昭和31(1956)年10月10日、上野~日光間の「日光」でデビューした。それ以降、昭和33(1958)年までに九州の「ひかり」、常磐線の「ときわ」、四国の「やしま」、紀勢本線の「きのくに」といった準急に次々と投入されていった。その波は昭和34(1959)年に入って東北にもおよび、同年2月1日から東北本線福島~盛岡間で運転を開始した準急「やまびこ」にも登場した。 気動車準急による速度向上効果は絶大で好評を博したことから、引き続き7月1日からは盛岡~花巻~釜石間に準急「はやちね」が運転を開始したほか、大鰐(現・大鰐温泉)~青森~盛岡間には準急「八甲田」が新設された。「八甲田」の名は、後年、上野~青森間の急行に使用されるが、その発祥は東北地方北部のローカル気動車準急だった。この「八甲田」の運転開始当初のダイヤは、508D/大鰐7時15分→青森8時24分・8時30分→盛岡12時34分、507D/盛岡16時02分→青森19時55分・20時00分→大鰐21時05分で、県庁所在地の青森や盛岡へ向かうための地元指向のダイヤが組まれた。なお、当初は国鉄監修時刻表に列車名の記載はなく、大鰐~尻内(現・八戸)間では八戸線鮫までの直通車両を連結していた。 この気動車「八甲田」は、昭和36(1961)年10月1日改正で新設された上野~青森間の客車急行にその名がコンバートされることになり、改正前の9月15日に「しもきた」と改称された。この列車はその後、昭和40(1965)年10月1日改正で上野~盛岡、宮古間の気動車急行「陸中」と結ばれ、「第1・2みちのく/陸中」となり一旦は消滅したものの、昭和41(1966)年10月1日改正では上野~青森、久慈、盛間の急行「三陸」が新設されたことから上野~盛岡間が廃止され、盛岡以北のスジだけを受け継いで「しもきた」の名が復活した。以来、「しもきた」は16年間、青森県と岩手県北部を結ぶローカル急行として地道に走り続け、昭和57(1982)年11月15日改正で廃止された。現在、その使命は特急「つがる」と東北新幹線に受け継がれている。

36.10で上野~青森間の客車急行に43.10では昼行多層建て列車も登場

60.3改正後は東北本線福島以北に足を伸ばす唯一の急行となり、客車も14系に置き換えられ特急並みにグレードアップした。

さて、36.10改正で「本線筋」に昇格した「八甲田」は、その消滅まで一貫して上野~青森間の急行として活躍した。この改正では急行「北上」が寝台列車に昇格したものの、座席車主体の輸送力列車も必要となったことから、「八甲田」の新設となった。その当時のダイヤは、39列車/上野15時10分→青森5時16分、40列車/青森23時57分→上野14時27分で、北海道連絡の使命も担っていたことから、上下とも北海道側は函館~網走、釧路、稚内間の急行「オホーツク/摩周/宗谷」と連絡していた。 運転開始から昭和40年代に入るまでは、「八甲田」に基本的な運転形態に変化はなく、昭和40(1965)年10月1日改正で、東北筋の優等列車の列車番号が、東北本線経由は100番代、常磐線経由は200番代と区分されたことから、「八甲田」の列車番号は103・104列車に変更された。 東北本線全線電化開業を機に実施された昭和43(1968)年10月1日改正では「八甲田」に大きな転機が訪れる。東北本線を経由する上野~青森間の急行はすべて「八甲田」の名に統一されることになり、改正前まで上野~青森、久慈、盛間で運転されていた気動車急行「三陸」を吸収し昼行の「八甲田1・1号」が登場した。この列車のスジ自体は「三陸」時代の3階建てを踏襲していたが、福島~秋田間の急行「おが1・1号」が上野延長運転を行なわない時は、これも併結し4階建てとなった。また、上りの青森~尻内間では、深浦~鮫間の急行「深浦」も併結していたことから、尻内では久慈発の列車が到着したあと、鮫行きの「深浦」が発車するという、多層建て列車ならではの複雑な作業が行なわれていた。43.10改正時の「八甲田」のダイヤは次の通り。 ・八甲田1・1号=101D(~2301D・~2603D)/上野6時55分→青森18時25分(盛16時21分・久慈18時30分)、(2612D~・2302D~)102D/(久慈10時00分・盛12時10分)青森10時05分→上野21時38分。 ・八甲田2・2号=101列車/上野19時00分→青森6時15分、102列車/青森23時59分→上野11時20分。 東北本線の全線電化以来、同線の昼行優等列車は次第に電車特急化が推進されるようになる。昭和45(1970)年10月1日改正では昼行「八甲田1・1号」が特急「はつかり」に格上げされることになり、昼行「八甲田」はわずか2年で幕を閉じることになった(盛岡以北のスジは「しもきた1・2号」の名で存続)。これにより「八甲田」は再び夜行1往復に戻り、昭和50(1975)年3月10日改正で勢力がピークに達した特急「ゆうづる」の追撃を受けながら、地道に上野~青森間の輸送に徹した。昭和50年代前半までは仙台~青森間に限りB寝台車も連結されており、昭和52(1977)年9月30日からは全車座席車編成に、昭和54(1979)年4月1日からは12系に置き換えられ、グリーン車の連結が中止された。 「八甲田」は、常磐線を経由する「十和田」や奥羽本線を経由する「津軽」よりも速く、北海道連絡にも便利なスジが組まれていたことから、特に北海道ワイド周遊券を利用する渡道客には人気のある列車だった。そのため、「十和田」がJR移行前の昭和60(1985)年3月14日改正で姿を消しても生き残り、東北本線のみを走破する唯一の上野~青森間急行として根強い人気を支えた。また、この改正では特急型の14系に置き換えられ、「八甲田」としてはこれが最後の系列となった。 また、昭和61(1986)年7月18日(上野発基準)から、新たなサービスとして、「八甲田」に荷物車(マニ50)と寝台車(オハネ14)を連結し、荷物車にバイクを積載することができる「MOTOトレイン」の取扱いが開始された。荷物車と寝台車は青森から当初は青函連絡船で、青函トンネル開業後は「八甲田」の間合運用で運転される14系の快速「海峡」(現・廃止)で継送され、函館まで乗り入れていた。 そんな「八甲田」も東北新幹線東京開業以後は、乗客の昼行移転が進み利用率が減少したことから、平成5(1993)年12月1日改正で廃止された。この改正では、特急「ゆうづる」や急行「津軽」といった伝統の列車も姿を消しており、上野~青森間を結ぶ東北本線筋の夜行列車は特急「はくつる」(現・廃止)のみとなってしまった。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2021/03/01


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